歴代徳川将軍で長生きしたのは誰?
江戸幕府260年の基礎を作った初代将軍、徳川家康は75歳で亡くなりました。当時の平均寿命はおよそ50歳でした。戦国時代を経験しているのに、この長寿ぶりには驚かされます。
家康の死因は、鯛の天ぷらにあたったためと言われていますが、毒殺説や胃がん説なども根強く残っています。
ところで、家康よりも長生きした将軍がいたことを知っていますか? それは、徳川家最後の将軍、第15代徳川慶喜で、77歳で亡くなりました。
慶喜の場合は在位わずか1年で、その後は公爵となり、悠々自適の生活を送った訳だから、長生きが出来たのかもしれません。
また、名将軍の誉高い八代将軍吉宗も、享年68歳と、ベスト4にランクインしています。吉宗は健康オタクで、菜食主義を貫いたそうです。
逆に、最も短命だったのは7代将軍家継です。わずか4歳で将軍職を継いだ家継は、8歳で亡くなりました。
77歳まで生きた15代将軍と75歳まで生きた初代将軍
歴代将軍の中で最も長命であったのは最後の将軍となった徳川慶喜。77歳でその生涯を閉じています。
次に長命なのは初代将軍である徳川家康。75歳まで生き、その死因は鯛の天ぷらによる食中毒、または胃ガンとされています。
60代まで生きた将軍は4人
歴代将軍のうち、60代まで生きた将軍は69歳で亡くなった11代将軍・徳川家斉、68歳で亡くなった8代目将軍・徳川吉宗、64歳で亡くなった5代将軍・徳川綱吉、そして61歳で亡くなった12代将軍・徳川家慶。
彼らのうち、徳川吉宗は脳卒中でこの世を去ったといわれています。
ペリーと日本人は何語で話をしたのか?
江戸時代の日本では、英語は全く通じませんでした。日本は250年も鎖国を続けており、オランダなどの一部の国としか交渉していませんでした。
アメリカ、イギリスといった英語圏内の国とは一切付き合いがなかったので、もちろん英語を話せる人など皆無でした。
では、ペリーが黒船で日本を訪れた時には、何語で会話をしたのだろうか? 実は日本人が英語を話さないと知ったペリーは、オランダ語の出来る乗組員に通訳させたのです。
前述の通り、鎖国中もオランダとだけは交流があったので、オランダ語のわかる日本人はいました。そこで、英語→オランダ語→日本語という方法で会話が行われたのです。
戦争がなかったのになぜ戦場ヶ原?
栃木県奥日光にある戦場ヶ原。名前のイメージとは異なり、四季を通じて美しい景色が望める所です。しかし、実は戦場ヶ原で戦いがあったという記録はどこにもありません。
それにも関わらず、なぜ、こんな物騒な名前が付いたかと言えば、実はこの戦場ヶ原は当て字なのです。
ここの原野があまりにも広い為、とてつもなく広いという意味の千畳敷から「千畳が原」という名前が生まれました。「記録はなかったが戦いは実際にあった」という説もあります。
この説で戦いがあったのは、神話の時代です。中禅寺湖がどこに属するかで、男体山と赤城山の間で争いが起きたらしいです。
男体山の化身である蛇の大群と、赤城山の化身であるムカデの大群が、この戦場ヶ原で大乱闘を繰り広げたが、弓の名手であった小野猿丸が男体山に加勢して、見事にムカデの大将の左目を射抜き、男体山を勝利に導きました。
そのおかげで、中禅寺湖は男体山の懐に抱かれ、日光では猿が神聖な動物とされていると言います。